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黄昏――昼と夜の間。
太陽と月が地上の支配権を交代する、別名逢魔が時。
美里葵は逢魔が時という言葉を知ってはいたけれども、魔に逢う可能性など考えたこともなく、
そもそも、二十一世紀を目前に控えた、世界でも屈指の大都市東京で、
魔そのものが存在するとさえ思ってもいなかった。
その考えが間違っていたと、後に葵は知ることになる。
おとぎ話や神話の中だけの存在だと思っていた魔は確かに存在し、しかも、すぐそばに居ることを――
生徒会の用事を済ませた葵は、鞄を取るために自分の教室に戻る。
秋も半ばを過ぎた季節は、この時間でももう夜に近い夕方となっていて、
歩く廊下も深いオレンジ色に染まっていた。
オレンジ色は本来暖かみのある色のはずなのに、
明度が落ちたオレンジは不気味さを感じさせてやまない。
葵は幽霊やお化けを信じる性質ではなかったが、生徒もほとんどいなくなって静まりかえった校舎に
気味の良さを覚えるわけもなく、やや足早に進んだ。
教室に到着した葵は扉を開け、中に入る。
心理的に急いでいるからといって乱暴に開けたりはしないのが美里葵という少女で、
たとえ誰もいないと判っていても、やはり同じように静かに開けただろうが、
意外なことに、三年C組の教室には人影があった。
「アラ」
窓際に立っていた女性が、扉の開いた音に振り向く。
考え事をしていたのだろうか、わずかに驚いた風で、
しかし葵が束の間見惚れてしまうほど優雅な仕種だ。
トレードマークとも言える赤いジャケットを影との強烈なコントラストに浸らせている、
日本人離れした金色の髪と、葵の位置からでは逆光で見えないがこれもやはり日本人には
持ち得ない深い蒼色の瞳を有する長身の女性は、葵の担任でマリア・アルカードといった。
去年から真神學園に、英語の教師として赴任している。
「マリア先生」
敬愛する担任教師に出会ったことで、抱いていた心細さが霧消した葵の声に、
安堵が混じったのは無理もない。
「どうしたの、こんな時間に。生徒会かしら?」
「はい、忘れ物をしてしまって」
マリアが軽く目を瞠った。
「美里サンでも忘れ物をすることがあるのね」
マリアはからかっているのではなく、本当に驚いているようで、それがかえって葵には恥ずかしい。
話題を変えようと葵は試みた。
「先生は何をしていらっしゃったんですか」
「ワタシ? ワタシは」
猫の瞳のように、マリアの双眸が細くなる。
訊いてはいけないことを訊いてしまったのかと緊張する葵に、
形の良い唇から、歌手としても大成しそうな美しい声が発せられた。
「夕陽を見ていたのよ」
「夕陽……ですか?」
「ええ。沈んでいく太陽が別れを告げるときの色が好きなの」
マリアが破顔したので、自分を和ませようとしているのだと葵は悟った。
だが、彼女の発言が本気か冗談かまではわからない。
そのため葵は返事に困り、マリアを見つめるしかできなかった。
沈みつつある陽光を半身に浴びたマリアに、葵は息苦しさを覚える。
元々マリアは絶世の、と冠をつけてもそう反対意見はおこらないほどの美女だが、
こうしてダークオレンジの光を浴びる彼女は、人ではありえない妖しさを全身から放っていた。
夕闇が似合うなどといったレベルではない、闇を住処とするかのようなたたずまいから、目が逸らせない。
堕ちる太陽を背にしたマリアが、髪をかきあげる。
濃い金色の髪から光の粒子がこぼれ、身体のラインを浮きあがらせた。
砂時計のように中央がくぼんだ肢体は、美の極致に達していて、
こうして真正面から見ると、葵はため息しか出ない。
美術館に置かれた像よりも肉感的で、女としての魅力に満ちた身体は、
大胆にダークオレンジと黒に塗り分けられ、光と闇の狭間に佇立していた。
「この時間をトワイライト――逢魔が時というのだったかしらね」
「は、はい」
質問の形式をとっていたので、葵はうなずいた。
日本人でも忘れかけているような古い言葉を、外国人のマリアが知っているのも、
特に疑問には思わなかった。
彼女の美貌は、彼女が全能の存在であったとしてもおかしくはないと
信じてしまいそうなほどに際だっていたからだ。
「良い言葉だわ……そうは思わないかしら?」
今度も質問だったけれども、葵は答えられなかった。
マリアも返事を期待していなかったらしく、すぐに続けた。
「昔の日本人は魔を畏れることを知っていた。
闇が訪れれば、世界は自分たちのものではなくなると知っていた。
あらゆる地を征服しようなどと驕ることもなく、分をわきまえていた。
自分たちは地球の一部を間借りしているだけの存在なのだと」
赤く濡れた唇が勢いよく動く。
大人の女性なら、否、葵の同級生にも塗っている子がいる、口紅の色。
顔の派手さを引き立たせるかのように、あえて暗めの赤で塗られた唇は、
催眠術のように葵を惹きつけた。
マリアの様子は明らかにおかしく、普段は海面下で光を受ける氷の色をした瞳のように
表には出さず、けれども学ぼうとする者には確実に応えてくれる深さを持った情熱が、
安っぽい、その場限りのお願いを連呼する選挙時の候補者のように剥きだしになっている。
その程度ではマリアが持つ美しさはほとんど損なわれなかったが、
彼女からは異様な迫力が立ちのぼっていて、葵に蔦のように巻きついてきた。
荷物を回収して、早く教室を出た方がいいのではないか。
そう思いはしても、声帯にまで蔦が絡みついたかのように声が出ない。
呆けたように窓とその前に立つ女性を眺める葵の耳に、ハイヒールの音が響いた。
マリアが近づいてくる。
顔を覆った影の中で、蒼い瞳が爛々と輝いた。
一目散に逃げた方がよいのではないかという不合理な悪寒が葵を囚える。
それはマリアが太陽が最後の余光を放つ窓際から、
光の届かない教室内に歩いてくることで一層強くなった。
「どうしたのかしら?」
「い……いえ」
マリアが怖い、などと言えるはずがなく、葵は自らをたしなめるように頭を振った。
けれども散らした不安はまた、黒い霧となって脳裏に巣くう。
「美里サン」
「は……い」
自分が生唾を飲み下す音を、葵は遠くに聞く。
つま先が触れるほどの近さに立ったマリアの唇が、芋虫のように蠢いた。
「アナタは、バージンかしら?」
今、マリアは何を訊ねたのだろう?
両方の耳から注ぎこまれた質問は、葵の心臓へと落ちていく。
心臓が早鐘を打つ。
まるで闇から逃げるチャンスの、時間切れを告げるように。
顎にマリアの指が乗せられる。
力が加えられたようには思えないのに、葵は上を向き、マリアと目を合わせた。
「答えなさい」
口調よりも顎に乗せられた指がマリアの意志を伝える。
温かさをほとんど感じない、冷たさすら覚えるような白い人差し指。
加えて親指が、下顎から唇へとにじり寄ってくる。
嘘をつけばたちどころに暴かれてしまうだろうという確信に近い恐怖に、葵の唇は震えた。
「は……い……」
「そう……いい子ね」
マリアの返事の意味よりも、彼女の機嫌を損ねなかったことに葵は安堵しかけた。
この時マリア・アルカードは親しみやすい葵の担任ではなく、上位者――それも、
全てのものを従える、絶対的な存在であるように感じられたのだ。
それは錯覚に違いない。
あるいは、光と影が入れ替わるこの時間、逆さにすると別のものが見える騙し絵のように、
どんな人間でも持っている、別の性格というほどでもない要素が、
たまたま現れてしまっただけなのだろう。
素早く脳裏に浮かんでは消えたそれらの、マリアを悪人としたくない考えは、
何の役にも立たなかった。
暗がりにあって宝石のように輝く蒼い瞳が、いつの間にか近づいている。
その意味を葵が知るよりも早く、マリアの手が腰に回された。
蛇のように巻きつく腕に、葵が不吉なものを感じた瞬間、
北極の海面下で、陽の輝きを受けて乱反射した氷の色をした瞳が葵を捕らえた。
美しくもどこまでも深く沈んでいきそうな蒼さに、葵は束の間我を忘れる。
次に葵が自分を感じたのは、全身を包みこむバラの芳香と、
唇に押し当てられた、いやに冷たいマリアの唇を通してだった。
「……!」
それが初めてのキスであったことも、相手が同性であることも、失念するほどの衝撃が葵を貫いた。
それが何故なのか知る由もないまま、深淵へと堕ちていく。
唇がめくられ、舌が入ってきた。
初めての感覚に葵の皮膚は粟立ち、耳朶が熱く火照る。
反射的に閉じてしまった目を開ける勇気も出ないまま、葵は自らの肉体をマリアに明け渡してしまった。
「うう、う……」
根本から舌先まで、自在にくねるマリアの舌は、あらゆる葵の口腔内をねぶっていく。
歯列を、下顎の内側を、歯の裏側を、検査でもするように這っていった。
下顎をつままれた葵の、開いたままの口から唾液が伝う。
マリアはそれを啜り、自分の唾液と混ぜてから葵に飲ませた。
「んっ……く……」
重みのある液体が喉を落ちていく。
それは強いアルコールに似た感覚であったが、
未成年の葵が知る由もなく、押しこまれる二人分の唾液を嚥下するしかなかった。
「あ……ぁ……」
きつく抱きしめられ、延々と口腔を犯される。
半ば意識を失った葵の、理知的な目はうつろに開き、端正な唇は泡ぶくにまみれていた。
変わり果てた教え子を、マリアは満足げに見やる。
「フフ……美里サンが悪いのよ。今日のような日に、一人で現れてしまうなんて。
必死に抑えつけていたけれど、もう我慢ができないわ」
マリアの声が巻きついた腕から生じた棘となって葵の肌を刺した。
痛みと恐怖、それに恍惚。
一度にこんなにも多くの情感を受け取ったことなどない葵は、
自分を浚おうとするものの正体を見極めることができなかった。
「アナタを、育ててあげる……ワタシのために咲く、淫らな花として」
マリアの囁きが耳孔をくすぐる。
けれども理解はできず、葵はぼんやりとマリアを見上げただけだ。
マリアの手が葵の尻に伸びる。
充分に実った肉果はマリアの手に余る大きさで、女教師ははじめはスカートの上から、
すぐにストッキングごしに、じんわりと揉みしだいた。
「あ、ぁ……先生……」
葵は身をよじるが、マリアに抱きとめられていて逃れることはできない。
繰り返し与えられる刺激は、次第に不思議な感覚を葵にもたらしはじめた。
「はぁ……ぁ……」
頭がのぼせ、息が上がってくる。
キスの時と違うのは、意識ははっきりしたまま、気持ちがいいと自覚している点だ。
マリアから漂う濃密な香りを吸うと、その気持ちよさが増幅され、
下腹に熱となって溜まっていくのだ。
そしてその熱は尻を揉まれることで攪拌され、葵は、逃げ場を求めて上を向いた。
「お尻を揉まれるだけでもこんなに気持ちいいだなんて知らなかったでしょう?」
「わ……わた、し……」
見下ろす蒼い瞳は全てを見透かしているような気がした。
けれども認めてしまうのはやはり怖い。
口ごもる葵に、マリアが顔を寄せる。
沈む陽を浴びて陰となった顔の半面が、とくりと葵の心臓を鳴らした。
「ん……」
唇が冷たい。
何故かを考えるよりも先に、快さが口に広がっていく。
この季節でも遅い時間になると吹く、肌を刺すような風の冷たさではなく、
氷枕のように、体の熱を沈めてくれる冷たさだ。
マリアの舌が唇に触れる。
彼女の唇とは別種の冷たさを、葵は今度は進んで受けいれた。
マリアは初めは舌先で、誘うようにつつく。
その快美な刺激に葵は肩を震わせ、震えが収まると、脱力してマリアにしがみついていた。
「あ、ぁ……」
マリアの舌が口腔を掻きまわす。
今度は顎を捕まれてはいないから、その気になればいつでも中断できるはずだった。
けれども葵にその意志はない。
子供の頃にした、溶けかけた氷を口の中で舐めるよりももっと気持ちがいい冷たさを、
ずっと味わっていたかった。
動きを弱め、粘りつくようにうごめくマリアの舌に、葵は自分から触れる。
マリアが少しでも笑う仕草を見せたなら、きっと恥ずかしさのあまり我に返っただろうが、
美貌の女教師は顔の筋肉のひとかけらさえ微笑ませず、教え子の決心を尊重した。
「は、あ……あ……」
マリアのそれと較べればあまりにたどたどしい舌の動きを急かしたりはせず、
好きなように振る舞わせる。
その上で葵が動きを止めると舌を絡め、葵をさらなる淫らな深みへと導いていった。
舌先だけでの細やかな快感も、舌腹がべっとりと接着する溶けそうな愉悦も、
くちづけを知ったばかりの少女はその肉体に刻みこまれていく。
しかも、舌同士の触れあいでさえ充分な快楽となるのに、
マリアの舌はまるで体温がないかのようにいつまでも冷たく、
その舌に舐めまわされる気持ちよさは葵がこれまで経験したことのないものだった。
「あ……う……」
マリアの舌が口の中を這いまわる。
上顎も、歯茎も、唇の裏側も、届く場所全てを、掃除をするように念入りに、蹂躙していく。
口の中に広がっていく、冷えていく、けれども麻痺するほどではない、
絶妙の冷たさの虜となった葵は、呆けた喘ぎを漏らしていることにも気づかない。
捏ねられる尻のむず痒さと、情感たっぷりにねぶるマリアの口唇に酔いしれ、
女教師に全てをゆだねていた。
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